司馬遼太郎作の関ヶ原を読み終わりました。また今週には映画化された関ヶ原も見に行ってきました。
小説は約2ヶ月かけてゆっくり読み込んだことになります。関ヶ原の戦いは、あまりに有名でなんとなく知っているけれど、なぜその戦いが起こったのか、そのプロセスが明確になってすごく面白かったです。
ここでは、石田三成にスポットを当てて、少し語ってみたいと思います。
目次
【読書】関ヶ原 司馬遼太郎著 – 『何をもって人を動かすのか?』を考えさせられる長編小説
時代に合わなかった、石田三成の『人の動かしかた』
『義』で人を動かそうとした石田三成と、『利』で人を味方につけた徳川家康。
ふたりの主人公はこんなふうに色づけされています。
豊臣秀吉の寵愛を受けた石田三成は、主君亡きあとも忠節を誓います。徳川家康が天下を奪おうとした際には、『秀吉様のご恩を忘れるなんてけしからん!みんな、家康を成敗しよう!』と動きだします。
それに対して徳川家康は、豊臣家への忠誠を誓うふりをしながら、影で工作をして諸侯をどんどん取り込んでいきます。『徳川家についたほうが得だよ。これからも守ってあげるからね!』というわけです。
はたしてこの時代では、『利』でもって説いた家康に軍配が上がるんです。
ただ、石田三成の生き方は、日本の武士の生き方に影響を与えるんです。
日本にケジメをつけさせた石田三成
物語の最後に、稀代の名軍師、黒田官兵衛が石田三成のことを回想してこう語っています。
「あの男は、成功した」といった。ただひとつのことについてである。あの一挙は、故太閤殿下のなによりもの馳走になったであろう。豊臣政権のほろびにあたって三成などの寵臣までが家康のもとに走って媚を売ったとなれば、世の姿はくずれ、人はけじめをうしなう。(関ヶ原 下巻 P.492)
この時代に、『義』という思想は武士の中に浸透していなかったそうです。いかに生き残るか、自分の家を残すか。強きものになびいて生き残ることを考えることが常識で、誰かの恩に報いようという考え方はなかったのです。
豊臣秀吉が亡くなった後も、武将たちは徳川家康になびこうとします。それを見ていた石田三成が、不義であるとして徳川家康に戦いを挑んでいくのです。
派手に負けはしましたが、石田三成が戦を起こしたことで、『義』というものを世の中に示した。
自分の主君に恩義を感じて戦うことを世の中に見せつけることで、日本にけじめをつけさせたと言う見方ができます。
そういう風な見方で読んでみると、石田三成の言動が少し違って見えてきました。
小説の中では、頭の固い、鼻持ちならない官僚として描かれています。結局それが災いとなって、諸侯をまとめ切れずに裏切りを受けて敗れるわけですが、それだけ純粋に『義』を説いていたとも言えます。
もしも石田三成が、『義』というものが浸透した時代、例えば幕末期に活躍していたとしたら、もっと人をひきつけられたのかもしれないですね。
さいごに
どちらが正しかったというよりも、時勢を読んだ徳川家康が優っただけだったのかもしれません。
何をもって人を動かすのか、という点で読むと新しい視点で楽しめました。