この一ヶ月、自分の周りでネガティブなことをいくつか体験した。仕事の人間関係が上手くいかなかったことが主な要因。
人間関係でそこまで苦労しないほうだし、基本的に落ち着いて誰とでも対処する術は身につけているけれど、今回ばかりは自分の感情を(特に怒りの)さらけ出しそうになった。なんとか修羅場になることもなく事は収まったけれど、トラブルがあった人へのわだかまりがなかなか消える事がなかった。
そんなときに読んだ本、村上春樹さんのエッセイの一節に、ぼくは目を覚ましてもらうこととなった。
忘れないうちに、まとめておきたい。
目次
人生の中で、すぐに結論が出ることは少ない
身の回りで何か嫌なことが起こったとき、もしくは自分がまだ経験したことがないことが起こったとき、ぼくはどんな反応をしていたのか。
振り返って考えてみると、とにかく早く結論を出していたことに気づいた。
人から何か嫌なことを言われたときには、「あの人はああいう人だから仕方ない」と思うようにしていたし、嫌な出来事が起こったときには、「この出来事には、こういう意味合いがある」と結論づける癖がついていた。
なぜそうやって結論を急いでいたのか。
結論づけると人は楽になる
処理できない出来事に対処するとき、それを自分の世界に落とし込んで、自分なりの結論を導き出していく作業を繰り返す。なぜなら、そのほうが自分が楽になるから。
「Aさんは、こんな人だ」とカテゴライズしてあげれば、とりあえず心の整理をつけることができる。
でも、本当にそれで良いんだろうか?と、悶々としていると村上春樹さんのエッセイの中でこんな文章に出会った。
そんなわけで僕の場合、何かが持ち上がっても、それについてすぐに何かしら結論を出すという方には頭が働きません。それよりはむしろ自分が目撃した光景を、出会った人々を、あるいは経験した事象を、あくまでひとつの「事例」として、言うなればサンプルとして、できるだけありのままの形で記憶に留めておこうと努めます。そうすればそれについて後日、もっと気持ちが落ち着いたときに、時間の余裕があるときに、いろんな方向から眺めて注意深く検証し、必要に応じて結論を引き出すこともできるからです。 -「職業としての小説家」より
これは、小説家としてどうやってネタ集めをすれば良いかについて書かれたものだけど、今の自分にぴったりときた文章だった。
だいたいにおいて今の世の中は、あまりにも早急に「白か黒か」という判断を求めすぎているのではないでしょうか?もちろん何もかもを「また今度、そのうちに」と先送りにするわけにはいかないと思います。とりあえず判断を下さなくてはならないものごともいくつかはあるでしょう。(中略)しかしそういう切羽詰まったことはそれほど頻繁にはないはずです。情報収集から結論提出までの時間がどんどん短縮され、誰もがニュース・コメンテーターか評論家みたいになってしまったら、世の中はぎすぎすした、ゆとりのないものになってしまいます。あるいはとても危ういものになってしまいます。- 「職業としての小説家」より
ぼくも、知らず知らずのうちに、結論を急ぎ過ぎるようになっていたのかもしれない。
臭いものにはフタをしてみる
ぼくがここで学んだこと。何か出来事が起こって、今の自分には重た過ぎて消化しきれない、対処しきれないと思ったとき。
そんなときは、いったん臭いものにフタをしてみるのが良いのかもしれない。
自分の頭脳、判断力なんてたかが知れている。けれど、もっと後になって色んな経験を積んだときに、違った解釈ができることがあるかもしれない。
「あいつはこんな奴だ」と決めつけてしまえば、そこからの発展はなくなってしまう。
それは、ちょっともったいないんじゃないだろうか。
もしかすると、その人にはもっと違う、素晴らしい面もあるかもしれない。それに出会うチャンスを放棄することはないよね。
全ては自分の心がけ次第。
だから、急いで結論を出さずに、ちょっと脇に置いておこう。臭いものにフタをしてもいいじゃないか。
きっと、それに対処できる時期がきっと来るはずだ。
まとめ
物事をあるがままに受け止める度量を。
結論をすぐに出さずに、色んな角度から物を見られる柔らかさを。
そんなことに気づかされた、シルバーウィークの読書だった。